FOUNDING STORY建設技術研究所の歩み

敗戦とともに歩んだ創業期

事務所を置いた建築会館

米国に追いつけ追い越せ!~財団設立の背景と発足

株式会社建設技術研究所の前身である財団法人建設技術研究所(以下「財団」)の歴史は、第2次世界大戦の敗色濃い1944(昭和19)年12月から始まります。
当時、飛行場の建設において米国はブルドーザなどの建設機械を駆使して数週間で完成していたのに対し、日本では人海戦術で数カ月を要していました。そこで、日本土木建築統制組合の理事会で、「米国に負けない建設機械の開発」を目的とする財団法人の設立提案が承認されます。
こうした時代背景の中で当財団は、1945(昭和20)年8月1日、東京都京橋区銀座西3丁目1番地にあった建築会館1階に事務所を開き、8月14日に帝国ホテルで第1回理事会を開催しました。

教材「発電水力参考図集」

設立直後に敗戦~大混乱の中でスタート

大きな志を胸に開かれた第1回理事会の翌日、日本政府はポツダム宣言を受諾します。この敗戦によって設立直後にもかかわらず財団の存続が危ぶまれる事態に陥りますが、「建設施工技術の向上」「学識経験の総力を挙げて国家緊急建設の要請に応える」と謳った基本目的は国家再建に不可欠と認められ、存続が決定します。
財団設立当初は、終戦直後ということもありその存続に苦労する中で、土木建設用機械を使っての建設会社の下請けや、大学の土木科の教材を刊行するなどが主な収入源となっていました。

内海清温(左から3人目)と所員の技術会議

建設ブーム到来!~建設コンサルタントが産声を上げる

財団設立から5年経った1950(昭和25)年6月に朝鮮戦争が勃発し、他の産業と同様、建設業界も恩恵を受けます。この“戦争特需”による急激な建設ブームが起こったのです。
この時代は、日本の建設業界がさらに一段高い発展へ歩みを進めようとしていた時期でもあり、財団の業務内容にも大きく影響しました。その代表的なものが、建設コンサルタント業務の開始です。
きっかけは、1947(昭和22)年の佐野川柿元ダム、1948(昭和23)年の中津川発電計画など、当時の財団理事長、内海清温の実績や人脈によるものでした。これが日本における建設コンサルタントとしての先駆けとなります。

“水”分野に進出した成長期

ダム建設の需要増加で設計に追われる所員(昭和35年)

建設コンサルタント業務の基礎を作ったダム建設と水理模型実験

朝鮮戦争の特需で沸いた1950(昭和25)年以降、建設コンサルタント業務の受託は年々急増します。財団はこの戦後の国土再建の意図をいち早く的確につかみ、1つの分野に着目します。それは水力発電とそれに関わるダム建設でした。
当時の代表的なプロジェクトに「雨畑ダム」があります。設計、実験から工事監理まで一貫して担当しただけでなく、完成後の維持管理までも担当した点で昭和20年代から30年代にかけて受託した業務として特筆すべきダムです。同ダムの管理は、現在もなお東京本社ダム部が引き継いでいます。
また、昭和30年代になると水理模型実験も本格化させます。こうした実験を行った背景には、歴代の理事長が水力の専門家であったことと、実験に必要な広大な試験場を早くから確保していたことがあります。

水理模型実験(多摩試験室)

幻のプロジェクトが未来に大きな種を蒔く

1953(昭和28)年8月、フィリピンの国会は、マリキナ河総合開発におけるマリキナ多目的ダムの建設を採択します。
マリキナ川はフィリピンのマニラ首都圏東部にある川で、周辺は低湿地のため、台風襲来時にはしばしば氾濫して被害が発生していました。マリキナ川の河川氾濫によって生じる洪水被害を軽減する目的で、同プロジェクトはスタートします。のちに日比両政府の間で「技術援助契約」が調印・締結され、日本からIED(国際技術協力開発(株))とともに当財団が推挙されました。
ところが、このプロジェクトはフィリピンの政情変化により実現には至りませんでした。しかしながら、この時に行った技術的検討が国内外で高く評価され、財団のダム設計技術の基礎が培われます。また、マリキナ多目的ダムの水理模型実験のために多摩試験室が開設されたことも、その後の受託業務の拡大につながりました。
幻となったプロジェクトで培われた技術とまだ実験施設を有する建設コンサルタントがなかった当時にダム実験室を開設したことで、後に「水の技研」と言われる種が、この時代に蒔かれたことになります。

時代の大きな変化に呼応する変革期

当時の大阪支社(佐野屋橋ビル)の様子

株式会社の設立~建設コンサルタント競争の時代の幕開け

東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年、建設コンサルタントの登録制度が発足することとなり、公共事業の委託契約は、建設コンサルタント登録業者による競争によって選定されることが前提とされました。こうして日本の社会インフラの多様化と拡大に伴い、多くの建設コンサルタントが誕生します。
こうした流れの中で財団は、競争に打ち勝ち、新たに収益関係の業務だけを目的とする会社の設立が必要となり、建設技研株式会社を設立します。1963(昭和38)年4月4日のことです。設立当初の社員数は104人、1963(昭和38)年度:第1期の受注高は1億2千万円、売上高1億4百万円でした。翌年、株式会社建設技術研究所(以下、当社)に改称され、現在に至ります。

プログラミング機能付き卓上計算機などを活用

最新テクノロジーの先行導入と河川計画トップの座へ

1964(昭和39)年に改定された河川法により、水系ごとに定める工事実施基本計画を策定することとなりました。このために当時は高額だった電子計算機をどこよりも早く導入します。このことが河川計画分野の発展の決定的な要素となり、建設省が管轄している109の一級水系のうち6割近い62水系の治水計画を担当するまでになります。
また、埼玉県と東京都を流れる荒川における横越流堤を含む河道計画業務、群馬県などの利根川上流域の流出解析業務などを皮切りとして次第に受注が増え、1968(昭和43)年には河川計画部門の受注高で業界トップとなりました。そして、1970(昭和45)年にはついに売上高10億円の大台を突破します。

日本証券業協会長より店頭登録証の授与

技術競争本格化に向けて株式公開から上場へ

1990年代になると、「会社の社会的地位の向上」「役職員の財産形成」「ファイナンスによる会社財産の形成」を目的に株式公開と上場を行います。まず、1990年(平成2)年1月1日付で株式公開準備室が新設され、以後約4年間にわたりさまざまな準備が進められ、1994(平成6)年6月に店頭登録が実現します。続いて、1996(平成8)年10月に東証二部上場、1999(平成11)年6月に東証一部上場を達成します。
この頃から、建設コンサルタント業界は、入札・契約制度の改革や、「公共工事の品質確保の促進に関する法律」(通称、品確法)の施行により、本格的な技術競争の時代に入りました。

「技術と英知」「人」そして未来

Waterman Group Plcをグループ化

前倒しの目標達成と2025年に向けて

株式会社設立当初、104人だった社員数も今では約1,800人を擁するほどになりました。売上高も443億円(2020(令和2)年度:第58期)にまで成長し、株式上場以降も黒字経営を継続しています。また現在、グループ会社数は10社、CTIグループの社員数は3,000人に達しています。
事業環境や経営状況を踏まえて2015(平成27)年に策定したCTIグループ中長期ビジョン「CLAVIS 2025」ではグループ目標とする事業規模を600億円としました。国内の国土強靭化に関するニーズの増大や、Waterman Group Plc(本社:英国ロンドン)のグループ化による海外事業の拡大などにより、2018(平成30)年には国内売上高約420億円、海外売上高約180億円、合計売上高約600億円となり、CLAVIS 2025の目標を前倒しで達成しました。そのため目標を上方修正し、2025(令和7)年には売上高850億円(国内600億円、海外250億円)、営業利益60億円を目指しています。

当社の資産は「技術と英知」「人」です。
CTIグループは、今後さらにマルチインフラ&グローバル企業化を加速して、この目標を達成すべく努力を続け、企業活動を通じて企業の社会的責任を果たし、社会的課題を解決し、人々が大切にする文化を守り創造することで、社会と会社の持続的な発展を同時に実現します。